映画との人生を変えた一本 ── 『BIUTIFUL』の“美”
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映画との人生を変えた一本 ── 『BIUTIFUL』の“美”

児玉美月

このコーナーでは、映画執筆家の児玉美月が、映画をジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズムなどの視点からご紹介していきます。今回は、映画についての考え方が変わった作品として『BIUTIFUL ビューティフル』を取り上げます。

※文中で『BIUTIFUL ビューティフル』と『あのこは貴族』の物語の核心に触れています。

©2009 MENAGE ATROZ S. de R.L. de C.V., MOD PRODUCCIONES, S.L. and IKIRU FILMS S.L

「美しい」と「綺麗」、どちらを選ぶかよく悩む。なんとなく「美しい」は概念や形而上的なものに、「綺麗」はたしかにそこに実体があるものに使いたい。「美しい」は上空に手をかざしながら言うイメージがあり、「綺麗」は胸に手をあてながら言うイメージがある。「美しい(うつくしい)」は五文字で「綺麗(きれい)」は三文字だから、時間をかけてその余韻に身を浸したいときには「美しい」が相応しい。

──「BIUTIFUL」。

英語で「BEAUTIFUL」の綴りを教えてほしいと子に尋ねられた父はこう答える。「聞いたままだよ」と。このたったひとつの対話だけで、父がどんな境遇の人生を生きてきたかがわかる。「美しい」と「綺麗」は類似の並置だったが、「BEAUTIFUL」と「BIUTIFUL」は正誤の並置だ。

メキシコ出身の映画作家アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥによる『BIUTIFUL ビューティフル』は、バルセロナの裏社会に生きるウスバルが余命二ヶ月を宣告されてから死すまでのわずかな時間が描かれる。ウスバルにはまだ小さい子供二人と、離れて暮らす精神を病んでいる妻がいる。

余命幾ばくの物語と聞けば、だいたいは主人公の抱えていた苦難は徐々に解消されてゆき、死が大団円として迎えられるものではないか。しかしウスバルに至っては、妻とは和解するどころか再び共同生活を試みてみたものの子に手を上げ破綻してしまうし、裏稼業では不手際で事故を起こし大勢を殺してしまう。

この映画は不思議と幻視を呼び寄せる。初めてスクリーンで観たとき、わたしは終幕近くに一瞬映る、天井に張り付く霊的人物をイへだと見間違えていた。イへとはセネガルから出稼ぎに来た女性で、ウスバルが家に住まわせてやっていた人物だ。直前ではその彼女がウスバルのお金を持って駅にいる場面がある。イへは悪事の罰としてなんらかの不幸に見舞われたために霊になってしまったと思っていたのだ。家に戻ったイへの黒い影と声だけが映るのも、より彼女を霊に感じさせた。しかしよくよく見てみると、天井に張り付いていた人物はウスバルだと十分に視認できる。彼は差し迫った自らの死をそこで悟ったのだった。

さらに深刻なのは中国人のゲイカップルの存在で、わたしは彼らがどこか遠くへ逃亡したのだと思いこんでいた。決定的なあるショットを故意に見落としていたのだろう。幻視といえばまだ聞こえがいいが、これは都合がいいだけのまったくの誤読だ。

そんな風にいくつかの「間違い」を犯しているにもかかわらず、わたしはこの映画のあまりの美しさに打ち震えた。聞いたままの「BIUTIFUL」が厳密には誤りのように、この見たままの「美しさ」も、その意味ではもしかしたら正しくないのかもしれない。

だけどそんなの残酷じゃないか。映画でウスバルは「BIUTIFUL」が誤りであることを知らぬまま死んでゆく。それをこう言い換えてみるべきだろう。映画はウスバルに「BIUTIFUL」が「BIUTIFUL」で正しいと思わせたまま死なせたのだ、と。この映画の美しさについて考えていくにつれ、自分のなかにある美しさの定義が変わり、つまり映画の価値そのものが変わった。

そんな“映画”がわたしにとっていかなるものなのかを知らしめるような作品が、ここ最近あった。それが東京出身のお嬢様である華子と、地方から上京してきた美紀のふたりの異なる階層を生きる女性を描く『あのこは貴族』だった。

©山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

華子は弁護士をしている良家の子息である幸一郎と結婚するのだが、やがてひとりで生きていくことを決断する。「結局のところ、華子が離婚に踏み切ったきっかけは何だったのか」と問われれば、わたしはとっさに「自分の好きな映画を幸一郎が観てなかったから」と答えるだろう。

幸一郎と初めて出逢ったその夜、華子は運命の相手を見つけられたかもしれない高揚した気分の勢いのまま、自分の好きな映画を語った。そしてそれを聞いた幸一郎は、たしかに「帰ったら見返そうかな」と言ったのだ。

どちらか片方が観ていない場合、映画談義を締めくくる常套句は間違いなく「今度観てみる」であって、そしてその「今度」が訪れないことも暗黙の了解としてある。たいして興味を持てなかったとしても、とりあえずの便利な言葉が「今度観てみる」だ。

だからこそ華子は離婚に至る直前に、最後の賭けとして試すように幸一郎に尋ねたのだろう。「あの映画観た?」と。これまた常套句をなぞっただけの予想通りの返事に、華子は「だよね」とどこか納得するように呟いたのだ。

もしも幸一郎が華子の話した映画を観ていたとしたら、ふたりは少なくともそれからしばらくは別れなかったかもしれないとさえ思う。その人の愛する映画を見つめることは、その人を見つめることと等しいはずだろう。

華子が日々堆積させていったのは、幸一郎にとっての自分の存在の小ささからくる淋しさではなかったか。彼が自分をもうずっと見つめてなかったからではなかったか。幸一郎が言い放つ「そんなに睫毛長かったっけ?」という台詞が伝えるのは、いかに華子の瞳を見つめていなかったかに尽きる。

誰かにとっては他愛のない映画についてのささやかな会話の反復を、こうしてさも物語の重要要素かのように抽出してしまう自分の身振りに気付かされると、映画のために映画を観ているのだ、とつい放言してみたくなる。

©2009 MENAGE ATROZ S. de R.L. de C.V., MOD PRODUCCIONES, S.L. and IKIRU FILMS S.L ©山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

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