彼女は“最高の復讐”を果たせただろうか ー 『アズミ・ハルコは行方不明』

児玉美月

このコーナーでは、映画執筆家の児玉美月が、映画をジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズムなどの視点からご紹介していきます。今回ご紹介する作品は、山内マリコ原作・松居大悟監督作品『アズミ・ハルコは行方不明』です。

映画『アズミ・ハルコは行方不明』のあらすじ
地方都市の寂れた国道沿い。大型モール・洋服店・レンタルビデオショップ・中古販売店・ファミレスが並ぶ典型的な郊外の町で、ある日突然28歳のOL安曇春子が姿を消した。ほどなくして彼女が消えた町には、捜索願のポスターをモチーフにしたグラフィティアートが拡散されてゆく。時を同じくして出現した、男だけを無差別に暴行する女子高生集団。安曇春子の失踪をきっかけに、交差する2つの犯罪。これは全て、アズミハルコの企みなのか?ハルコが消えた“本当”の理由とは? 
引用: クロックワークス公式サイト

©2016「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会

車にもたれかかる女が暗闇のなかで煙草を吸っている。春子なる名前のその女が吐き出す揺蕩う煙には、姿をくらませる春子自身が投影されている。そんな描写からはじまるその映画の輪郭を、わたしは何度観ても捉えきれずにいる。しかし朧気ながらも、そこにたしかに浮かび上がってくる個人的な記憶がある。そしてその記憶は、いつも次の一言から蘇る。

「わたしと恋できる?」と彼女は言った。
大学時代に一番仲の良かった親友が、出逢ってまだ間もない頃にわたしに放ってきた台詞がこれだった。なんの話の流れで出てきたのか、その前後の会話も、わたしの返事も、今となってはまったく思い出せない。ただその一言でわたしは彼女を大いに信頼し、瞬くはやさで仲良くなっていった。

その親友はなんの突拍子もなくそんなことを言い出すくらいにとにかく風変わりで、はたから見ればよく笑う子でもあった。毎日のように歌とダンスのレッスンに全力で励み、つねにたくさんの人に囲まれ、目まぐるしく恋を繰り返した。繊細な心をひた隠しにして、人前で笑ったその分だけ、ひとりで泣いているようだった。

親友の恋はなぜか傷つけられてばかりのように見えた。目の前で彼女が深い悲しみに身を浸していたとしても、おそらく真に癒せるのは傷つけたその人だけであって、わたしがどれだけ頭をひねって救いになりえそうな言葉を取り繕おうとも、身体を張ってそばにいようとも、その張本人には絶対にかなわないのだと思い知らされては絶望を感じた。もしかしたらわたしが彼女好みの男だったなら、事もなげに状況を一変させられていたかもしれないと、無意味な喩え話が立ち上がっては消えた。

あるいはこれから先も彼女がわたしのせいでこんなにも涙を流したりはしないのだろうと思うと、「恋愛」に自分が負けているような気がして、人知れずひどく虚しくなるのだった。どこの誰かもよくわからない男に傷つけられる彼女と、そんな彼女に傷つけられるわたしがそこにはいた。

©2016「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会

映画には春子のほかにもうひとり、死にたがりの季節を生きているらしい女の子の愛菜がいる。そんな愛菜の前に颯爽と現れた春子が問いかける。
「なんで死ぬの?」
「ぜんぶユキオのせい」
愛菜もまた、愛を求めては男たちに傷つけられてしまう女の子だった。

「女の子に必要なのはもっと別の言葉」
「たとえば?」
「“優雅な生活が最高の復讐である”」
スペインの諺らしいその金言を引用しながら、春子は男のために死ぬのだと言う愛菜を厳しく鼓舞する。ふたりのかたわらで燃え盛る炎の揺らめきが、そんな春子の貫禄に一層凄みを与えている。わたしはこの魔法のような言葉を、もっと早く知りたかった。もう一度唱えてみる。

「“優雅な生活が最高の復讐である”」

あるとき親友は教室の席に着くと同時に、「自分はよく痴漢に遭うのだ」と話し出した。制服を着ていれば尚更で、その話の最後には「生まれてからずっと東京で暮らしてる女の子たちは、みーんなされてるよ」とも言った。乾いた明るさが暗躍する何かに蓋をするような、そんな口調だった。電車に乗るのも稀な田舎から出てきたわたしは、そのトーンに合わせながら、「そうなの」と言うほかなかった。

©2016「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会

映画の終盤、匿名の女子高校生たちが手で模した銃を男たちに向け、一斉に走り出す。女子高校生たちだけが座っている映画館の観客席。そこでは女の子たちは、見られる側ではなく見る側だった。女子高校生たちによる連日の集団暴行の報道。そこでは「夜道にひとりで出歩くのが危ない」のは、女の子たちではなく男たちの方だった。

その映画の女子高校生のなかに、高校時代の親友の姿を幻視してみる。人は等しく傷つけ傷つけられて生きているのではない。傷つけてばかりの人と傷つけられてばかりの人が存在しているのだ。親友はまちがいなく後者だった。可傷性の反転されたかりそめの世界が描かれる映画に、わたしは会ったこともない制服姿の彼女を探した。

学校の目の前に細く続く川沿いのさびれた道。そこに等間隔に設置された木製のベンチは、ところどころ腐敗しかけていた。別れるのが名残惜しく感じるとき、わたしと親友はそこに腰かけ、最寄り駅まで十分たらずの帰途の時間を延長させた。

他愛のないお喋りがふと途切れ、彼女はどうしても聴いてほしい曲があるのだと言いながら、片方のイヤホンを渡してきた。少し嗄れた女の声が耳に流れ込んでくる。映画以外にまるで疎かったわたしに、その歌手の名前はシンディ・ローパー、曲の名前は「True Colors」だと教えてくれた。

生まれて初めてそのとき聴いたあの美しいメロディがもたらした心の震えと情景は褪せていない。視線の先にある川は、淀んだ水面に夕暮れどきの陽の光が反射して、一時的な輝きを手にしていた。それは網膜を焼いてしまうような光で、わたしはその川がどんな色かを知っていたのに、それでも今見ている色こそがその川の、本当の色かのように感じ入った。後にも先にも、彼女が歌を聴かせてきてくれたのは、その一曲だけだった。

大学を卒業し、あらかじめそうなると決められていたかのように、あたりまえにわたしたちは離れた。親友の田園都市線沿いにある自宅を初めて訪れたとき、取り急ぎで買っただけのような家具たちが不恰好に並べられたぎこちない自分の部屋と、観葉植物の伸びきった蔓が無造作に並んだ玄関の靴たちに絡みついている生活感を醸す部屋とを、わたしは比べずにはいられなかった。わたしが苦労して辿り着いたこの場所に生まれた彼女が恨めしくもあった。まったく別々の人生がほんのいっときでも交差することは、わたしが考えていたよりもずっとずっと奇跡のようなものだった。

劇中、死にたがる愛菜に春子はこんな言葉も投げかける。
「消えて、生きるの。わたしは生きてる」
そう言われた愛菜の姿には、プロジェクターで投影された女子高校生たちの映像が重ねられていた。だから愛菜はかつてのわたしの親友であり、そしてすべての傷つけられた女の子たちの代理表象でもあった。

「行方不明になった女の子たちは、へらへら笑いながらどこかで元気に生きてる。そう思わない?だってそうでなきゃ、わりに合わないでしょう」

もはや親友はわたしにとっての行方不明者であり、わたしは親友にとっての行方不明者であるのかもしれない。それでもわたしは、彼女と別々の道に分かれた季節になると決まって、彼女が彼女を傷つけた男たちに、最高の復讐を果たせていることを願うのだ。

©2016「アズミ・ハルコは行方不明」製作委員会

児玉美月 映画執筆家

映画執筆業。詩を書くようにして映画を言葉にするのが好きです。

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