アジアの女女映画 Vol.1『第三夫人と髪飾り』『お嬢さん』『藍色夏恋』『たぶん明日』

児玉美月

映画はいつの時代も社会を映す鏡と言われています。このコーナーでは、映画執筆家の児玉美月が、映画をジェンダー、セクシュアリティ、フェミニズムなどの視点からご紹介していきます。物語が映し出すメッセージ、持っている意味について考えるきっかけとなり、映画の世界の新たな扉を開いていただけたらうれしいです。

今回は、アジア圏の女性同士の関係を描いた作品を4つご紹介します。

『第三夫人と髪飾り』

©copyright Mayfair Pictures.

19世紀の北ベトナムを舞台にした『第三夫人と髪飾り』(2018年)は、わずか14歳のあどけない少女メイが、第三夫人として見知らぬ男に嫁ぐところからはじまる。

彼女はやがて、その男ではなく、性の手ほどきをしてくれる第二夫人の方を愛するようになる。メイにとっては、孕まされた子の父である男よりも、その腹を優しくさする女こそが運命の相手にほかならなかった。女は子を生むだけが役割とされるその場所で、当然ながら女同士の愛は許されるはずもなく、彼女が密かに宿した愛は、何にも昇華されることなくただ棄却されてしまう。

メイには極端なまでに台詞を与えられていないが、それは彼女の性格が寡黙であるためではなく、物語の中心に立つ女であるメイが、彼女の属す父権社会を見つめる沈黙した観察者の役割を担わされているためなのだろう。

そこでは女たちだけが犠牲者になるのではなく、若い男もまた苦しんでいる姿が描出される。強者が弱者を搾取し、他者の人生を簒奪する人間社会が、草花や生き物たちといった自然の風景と徹底して対比されていく。彼女が最後に手にする黄色い花は、毒花として劇中に何度も映し出される。家父長制度のもとで誰が利権を享受し、誰が犠牲になっているのか。

『第三夫人と髪飾り』では、この世界もまた、毒と蜜をあわせもつ花として喩えられる。ある者はその花の蜜のぶぶんだけを堪能し、ある者はその花の毒のぶぶんで死に至らされてしまう。そして、それを知らずしてただ美しく咲き誇るのが花=世界である。

ラストショットで、別の幼い少女は長い黒髪を自ら断髪する。ひとえに男を蠱惑するためのものとしか存在し得なかった艶めく髪との決別は、そんな世界への抵抗を宣言しているかのように見える。「髪飾り」とは、その意味において不必要な装飾品として葬られる。

『お嬢さん』

©2016 CJ E&M CORPORATION, MOHO FILM, YONG FILM ALL RIGHTS RESERVED

男性権威社会のもとで出会う女二人を描く韓国映画『お嬢さん』(2016年)は、日本統治時代の朝鮮を舞台とする。孤児として生まれたスッキは、藤原伯爵と名乗る男から詐欺の話を持ちかけられる。その内容は、秀子という名の令嬢の財産を手に入れるため、男が秀子に取り入るのを手助けする、というものだった。

しかし、やがて侍女として秀子に近づいたスッキは、その妖艶な魅力に否応なく惹かれていくことになる……。一方は経済的な理由で、そしてもう一方は境遇的な理由で、自由をすでに剥奪されて生きるしかなかった二人の女は、それぞれ自由を希求し、男の画策のなかに取り込まれる。男と女の画策は、見ている者をも同時に欺きながら、いつしか女と女の画策へと変貌を遂げていく。

幼い頃から卑猥な朗読を強制させられてきた秀子は、男の性欲を満たすために虐げられてきた存在であり、『お嬢さん』では、よってポルノは男のためのものとしてはじまるが、そのポルノの意義にも揺さぶりがかけられていく。終幕に映し出されるスッキと秀子は、シンメトリーの構図の中央に併置される。

それは、それまで異なる境遇に生きてきた二人の女が、双子さながらの共犯者であることを強調すると同時に、その視覚性は女同士の性愛を見世物として披露するポルノ的様相も呈する。しかし、二つぶら下がった銀の玉の鈴を手にして弄ぶ二人の女は、男のモノなどもう不必要だと言いたがっているかのようでもある。

かくして、女二人がおさめられた画面は、性的なまなざしで見つめようとしている男たちを拒絶しながら、男に消費されるポルノを巧妙に回避していく。画面内で行われていたはずの男―女間の詐欺、騙し合い、窃盗は、いつのまにか画面外の男―女間にすら及ぶ。

『藍色夏恋』

©ARCHETYPE CREATIVE LTD all rights reserved

女二人の「共謀」というテーマで繋がりゆくのは、台湾映画(フランスとの合作)『藍色夏恋』(2002年)。初々しい夏の青春期を描くこの映画では、女子高校生モンとその親友ユエチャンが、ユエチャンの好きな男子高校生チャンとユエチャンが結ばれるよう協力し合う。

ユエチャンのために渋々チャンと交流をはじめるモンだが、ユエチャンに片思いしていたことがのちに明らかとなる。一方チャンは、ユエチャンではなくモンの方に恋心を抱くようになっていくが、彼の真っ直ぐな態度に対して、モンは「わたしが好きなのは女の子」なのだと告げる。

「あなたのことが好きではない」ではなく、「わたしが好きなのは女の子」、つまり「男の子のことは好きになれない」と、彼の気持ちに答える。エンドロールでは、まるでモンの「そうだったら良かったのに」という願望が聞こえてくるかのように「わたしは女の子、男の子が好き」と書かれた切ない落書きの文字が映し出される。

「ユエチャンのことが好きで、チャンのことは好きになれない」ではなく、「女の子のことが好きで、男の子が好きになれない」という言葉こそが響き渡るこの映画は、決してたまたま恋をした相手の性別が同性だっただけなどとは言わず、「女の子が女の子が好きになること」、あるいは「女の子が好きな女の子」を肯定しようとしているようにも思える。

『藍色夏恋』は、若者の同性への恋を、単なる未熟さゆえの揺らぎのようなものとしては提示しない。瑞々しい映像がつねにヒリヒリした痛みを携えているのは、彼女のセクシュアリティに切実なまでに寄り添いつづけるからなのかもしれない。

『たぶん明日』

フィリピン映画『たぶん明日』(2016年)は、『藍色夏恋』とはまた別の形で親友の女二人を描く。主人公のアレックスはオープンリー・レズビアンだが、一番の親友であるジェスにはそのことを秘密にしている。

若者のカミングアウトの物語では、親との衝突を描くものも多いが、アレックスはすでに母から今どの女性が恋人なのか問われているくらいであり、その対象が親ではなく親友へとずらされている。たまたまアレックスの元恋人からの電話を取ったジェスは、彼女がレズビアンであることをそこで初めて知ることになる。

ジェスはレズビアンに対してさまざまな偏見を抱いており、たとえば「本当にダイクなの?」と無邪気に聞いてみせるジェスは、アレックスに「ダイク(※注釈:女性同性愛者を指す単語。当事者が自らのことをそう呼ぶ以外で使われる場合には、しばしば蔑称のニュアンスが含まれる)よりレズビアンのほうがいい」と窘められる。

あるいは、「いつからなの?」というカミングアウトのシーンにおそらくお決まりの質問には、「(いつからとかではなく)ずっと前から」と返事をする。次第にアレックスがレズビアンであることを受け入れていくジェスと、ジェスに人知れず恋愛感情を抱いていたアレックスの二人は、輝かしい街なかを駆けていくように親友から恋人へと変化していく。

淡いパステルカラーのトーンで描かれる『たぶん明日』が今どきな印象を与えるのは、ファッションや美術の洗練されたセンスによるものだけでなく、なによりも物語を牽引する主人公のアレックスが、周囲の人間たちの価値観をアップデートしていく役割を果たしているからだろう。

自らをクィア女性と公言する若き監督の実体験が織り込まれた本作は、彼女が実際にその人生で感じたのであろうことがいくつも垣間見え、それがきっと、現代に生きるマイノリティの若者たちを鼓舞するに違いない。

児玉美月 映画執筆家

映画執筆業。詩を書くようにして映画を言葉にするのが好きです。

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