〈前編〉深田晃司監督が作品にあえてノイズを入れる理由とは?【聞き手】水石亜飛夢
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〈前編〉深田晃司監督が作品にあえてノイズを入れる理由とは?【聞き手】水石亜飛夢

深田晃司
水石亜飛夢

水石亜飛夢が、いま一番会いたい映画人と対談する「トーク・ザ・シネマ」。第6回のゲストは『淵に立つ』などで知られる深田晃司監督です。『淵に立つ』が一番好きな映画と話す水石さんが、深田監督の演出論や製作の裏側についてお聞きしました。今回は前後編の二部構成にてお届けします。

深田晃司
映画監督。1999年、映画美学校に入学。2005年、平田オリザ主宰の劇団青年団に演出部として入団。『歓待』(2010年)が東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門作品賞受賞、『淵に立つ』(2016年)がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞、『本気のしるし』(2020年)がカンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションなど代表作多数。

水石亜飛夢
2012年ミュージカル「テニスの王子様2nd」にて俳優デビュー。2014年、TV「牙狼〈GARO〉 -魔戒ノ花-」にてメインキャストに抜擢。『鋼の錬金術師』にてアルフォンス・エルリックの声を演じ注目される。ドラマ「あなたの番です。」ドラマ「相棒17」、映画「青夏」映画「センセイ君主」など話題作に出演。『男の優しさは全部下心なんですって』が2021年6月11日より公開中。

水石

監督と初めてお会いさせていただいたのはワークショップでした。

深田

あれは何年前でしたっけ?

水石

『淵に立つ』の公開前、監督がカンヌに行かれる前でしたので、4年ほど前になります。

深田

そんなに前だとは意外でした。

©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMA

水石

僕は今25歳ですが、21歳くらいの時で、ワークショップで多くのことを教えていただき、それから『淵に立つ』を鑑賞してものすごい衝撃を受けたことを覚えています。それからずっと「好きな映画は何ですか?」と聞かれたときは『淵に立つ』と言い続けていますし、深田監督の作品を追いかけ続けています。

監督の作品は映画館を出た後に考えさせられることが多く、余韻を楽しるところが好きです。やはり意識されて作られているのでしょうか?

深田

ありがとうございます。やはりいかに余韻を残すかということにいつも気を遣っています。見終わったあとにどれだけその余韻を延ばせるか、できれば100人いたら100人が違う感じ方をするようにしたいと思っています。逆を言えば、ひとつのイメージ、ひとつの感情で印象を塗りつぶさないようにするということ。

もちろん色々な作品があるべきで、見終わってスッキリするような作品も必要です。ただ自分が意識しているのは、見る人によって見え方が変わること。その人が生きてきた時間や考え方、家族観や世界観などによって見え方が変わるといいなと思っています。

水石

作品の中にいる人物たちは、喜怒哀楽だけで表現できない感情がぐるぐるしていて、画からもその絶妙な空気感が感じられます。

深田

喜怒哀楽だけで分けられないと言ってもらえるのはすごく嬉しいです。普段私たちが生きている中で、喜怒哀楽で簡単に分けられることばかりではないですよね。隣にいる人が何を考えているのか、どんな気持ちなのか、本音なんて簡単に分かるものではないし、それは夫婦や恋人でだってそうですし、さらにいえば自分自身の本音だって本質的には分かるものではありません。フィクションはときにそれを単純化して見せますが、現実に生きている私たちはそれほど明瞭な感情の中に生きてはいません。

演じるということでいえばそこが難しく面白いところで、例えば普段生活をしながら、今の自分の感情はこうだからこういう表情にしよう、とかなかなか冷静に考えてコントロールはできないですよね。自分はこんな性格だからこんな話し方をする、なんてこともあまりないはず。そういう人もいるでしょうけど、すごく自意識過剰な人に思えるでしょうね。

そこを分かりやすく演技で説明しなければならないこともフィクションの世界ではときにあるかもしれませんが、僕はできるだけスクリーンにいる登場人物と観客の距離感が日常に近いものあって欲しいと思っているので、隣人が何を考えているか分からないように見る人によって見え方が変わり、想像をうながす状況を作ろうと意識しています。

水石

監督の作品には激しいシーンやアクションが少ないですよね。だからこそ、この人は何を考えているのだろうとフォーカスできて、とても引き込まれます。監督の作品に出演されている方々、例えば古舘寛治さん、仲野太賀さん、筒井真理子さんなど、皆さんに共通していることは何でしょうか?

深田

一人で演じるのではなく、共演者の演技を受けて返す演技がうまい人、でしょうか。それから、自分できちんと役を咀嚼してその人なりの芝居を作ってくれる俳優ですね。一緒にやっていて楽しいなと思います。

監督はどうしたいですかとか、監督のイメージをきちんと演じます、だけだと一緒に作っていく意味が薄くなってしまうので。俳優なりの役の捉え方、解釈したもの見せてほしい気持ちはあります。それらをぶつけてくれる人たちとよくご一緒することが多いですね。

水石

その解釈や提案などは、どの時点で監督に持ってこられることが多いでしょうか?

深田

ケースバイケースですが、クランクイン前の現場リハーサルのときに提案してくれる方もいます。例えば『淵に立つ』では、現場リハをしたときに浅野忠信さんから「監督、ちょっと見てもらってもいいですか」と提案があり、それがすごく面白くて最初の脚本プランを変更してそれで行きましょうと。

水石

『淵に立つ』での浅野さん、本当にひりつくほど怖いですよね。出演時間はそんなに長くないのにとにかく存在感がすごい。

深田

そうですね。

水石

それでもずっと登場人物の中にも、映画を見る人の中にも、赤い服を着た浅野さんがチラつくと言いますか。

深田

その赤い衣装プランを提案してくれたのも浅野さんです。

水石

えーーーーっ!!!

深田

それはクランクインどころか、衣装打ち合わせの前に浅野さんが衣装プランを絵に描いて持ってきてくれたんです。

水石

ご自身によるイラストでの提案だったのですね。

深田

浅野さんの提案してくださった赤い衣装を見てこれは演出に使えると思いました。『淵に立つ』はある場面から浅野さんがいなくなってしまう。物語は浅野さん不在のまま進みますが、いかに存在感をスクリーンに残せるかが映画の肝になります。なので浅野さんが一番暴力的に見える瞬間に赤い色の衣装を印象づけることで、後半は赤い色を画面に散りばめることで、浅野さんのイメージを残すことができる。

これは浅野さんが衣装プランを提案してくれたからこその演出で、やなり俳優も一人の表現者として関わってくれると、監督の脳内にある狭い世界を打ち崩すことができるし、発見もできるので面白いですよね。古舘寛治さんとは脚本段階で、特に台詞についてよく意見交換をします。

水石

監督の作品を見ていて、これはアドリブなのかと思うくらいナチュラルな返しなどもあって、あれは役者さんのアドリブなのか、書き起こされているのかすごく気になっています。

深田

ある種の自然さはある程度は技術で作れる部分があるので、脚本の段階で細かく書いていることが多いです。エリック・ロメール監督の言葉を借りると、台詞には2種類あり、1つは必要な台詞で、もう1つは本当らしい台詞になります。

必要な台詞とは物語の都合上、求められる台詞のこと。例えば「お父さんは銀行で働いている」や「宝はあの家にある」とか、物語を進めるために見ている人に伝えないといけない情報です。ある意味で「私は悲しい。なぜならお母さんが死んでしまって寂しいから」とか登場人物の置かれた状況や気持ちを説明するような内容の台詞もそうですね。これらは作り手の意図によって書かれているものなので、そのまま台詞にすると不自然になりやすい。そこで、本当らしい台詞が必要になります。

本当らしい台詞とは、物語を進める上では必要ないけれど、やり取りの中で本当らしさを演出してくれる台詞。その2種類をバランスよくまぶして、必要な台詞を本当らしい台詞の中に隠すのだと。

水石

無駄のない会話だけにするのではなく、あえてノイズを入れるということでしょうか?

深田

そうですね。実際、私たちの普段の行動はノイズだらけですよね。目的があってもなかなか最短距離でそこには到達できないわけで、普段の行動にしても意図せず身振り手振りは出てくるし、言い間違いもする。相手の声が聞こえなくて「え?」と聞き直すこともあります。

この「え?」と聞き直すことは、物語を進めるためには不必要です。でも、それがあるかないかで、ある種の自然さが変わってくる。こういった自然さはある程度までは技術で作れるので、脚本にあらかじめ少し入れておき、あとは上手い俳優さんであれば適量適所にノイズを混ぜてくれます。

古館寛治さんや仲野太賀さんはそこがすごく上手で。ちゃんと決められた台詞を言いながら、適度にノイズを混ぜてくれる、それができる俳優さんは安心してお任せできます。もちろん映画としてのリアルや面白さと、ナチュラルであることは必ずしもイコールではないという点も創作の面白いところではあります。

水石

とても勉強になります。なんだかワークショップを受けている気持ちになってきました。笑

深田

ある日本映画で、小学生の女の子が友達と話しているシーンがあったのですが、その台詞のキャッチボールに一切ノイズがなかった。演出の意図としてなら良いのですが、多分そうでもなくて、恐らく脚本家も監督もこのシーンのこの時間の中でとにかく伝えなくてはいけない情報量しか見えなくなっていて、ただそれを二人の子役に割り振り交通整理しているだけの会話になってしまっている。

大人であっても無駄なく論理的に話すことは難しく、それなりにノイズが混じるのに、しかも子どもたちが必要な情報を伝えるだけの会話をきちんとこなしているのを見ると違和感がすごい。これ、つい脚本家はやりがちなので、自分も気をつけなければといつも思っています。

水石

ノイズも含めて映画を作られる深田監督の頭の中はどうなっているのか、すごく興味があります。別のインタビューで「人は結局孤独である」とお話しされていましたが、孤独とはどのようなときに感じるものだと考えていますか?

深田

人それぞれ違うと思いますが、まあありふれた常套句ですが、人はひとりで生まれてひとりで死んでいくみたいなことよく言いますよね。家族や恋人、夫婦が一緒にいても結局はひとり。そもそも「ひとり」ってどいうことかと考えていくと自分の脳みそにたどり着いていってしまう。ここを突き詰めていくとどんどん独我論の迷宮に迷い込んで、ヤバいところへ陥っていくんですけど。笑

でも、どれだけ考えても答えは出ないし、考えても日常生活にはなんのプラスにもならず、むしろ精神的に苦しくなるだけなので段々とそんなこと考えないようになっていく。でも、ふとしたはずみで自分はひとりだと思い出してしまう瞬間がある。失恋した時かもしれないし、失業した時かもしれないし、何かに挫折をした時かもしれない。

あるいは十分に人間関係の満たされた状況なのにふと思い出してしまうことだってある。もちろんそんなこと思い出さずに生きていく人もいるだろうしそれは幸せなことなのだと思いますが、自分にとってはふと思い出してしまうことの方がリアルで切実なので、これからも映画の中で繰り返し描いていくことになると思います。

水石

すべては自分が感じ取り、考えたこと。考えはじめるとどんとん深みにはまりそうです。次回作もその視点が軸になっているのでしょうか。

深田

そうですね。ただ、表現に携わる人は、そこに意味や意義があるのかあまり考えすぎない方がいいと思っています。それを求め始めるとすぐにプロパガンダに近づいていってしまうので。作品の意味や、社会に向けての意味はなくてもいいと思う反面、どんな小さな作品であっても誰かに影響を与えうるものであることは、その責任も含め意識せざるをえません。

一方で、フランスの小説家・バルザックの言葉に「私たちは孤独である。ただ、孤独だと話し合える友人がいることはとてもいいことだ」といった内容のものがあります。楽観的な考えですが、もしかしたら、映画そのものが孤独を分かち合える友人になれるのかも知れないと思うのです。ごく一部の人であっても、作品に共感し、響き合えるかもしれない。そんな風に思っています。

©2016映画「淵に立つ」製作委員会/COMME DES CINEMA

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